●ラジオ番組のDJも経験
M「営業したのはそれっきりで、その後はなんだかんだで紹介で仕事がつながって、紹介で仕事するんでどんどん方向が変ってくるんです。2000年に、文化放送から電話があって、『BSデジタルラジオというのが始まります』と。『そこで濃い番組を作ってもらいたい』と言ってきたんですね。それで、その濃い番組『アジアン・パラダイス』(*8)が始まったんです。2000年12月1日にBSデジタル放送スタートし、『アジパラ』は2日が初回でした。
忘れもしない最初の特集は、レスリー(レスリー・チャン)でした。最初のおめでとうのメッセージはディック・リー。それが3時間の生放送だったんですね。つまり『香港アディクトクラブ』で作っていた内容を、そのまんましゃべっているようなもの。そして毎週、今の香港のチャートを紹介する。3時間で大体20曲くらいかけるんです。
おかげで本当に知識が増えました。その原稿書きで。しゃべるのはプロでないので、ストップウォッチとにらめっこで、全部読み原稿を書いていたんです。3時間分を書くのに、16時間かかったんですよ(笑)。残念ながら、番組は2003年の3月いっぱいで終わりました。なので、2年半ですね。
それから、さあ困った…と言ってる時に、たまたま『字幕をやりませんか?』というお話をいただいて、それ以来ずっと字幕の仕事になっちゃってるんです(笑)。」
●『美少年の恋』公開奮闘記
字幕というと『美少年の恋』(*9)が最初ですよね?
M「『美少年の恋』は2000年くらいですよね。日本で公開されたのは、『アジアン・パラダイス』が始まる直前。実際に字幕の作業に入ったのは98年の暮れくらいから…99年。
93〜94年くらいに、香港映画にゲイ・ムービーの多い時代があって、当時、評論誌の『ユリイカ』に中国語圏映画の同志電影(*10)についての原稿を書きました。まだ、ウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』が公開される前。それでアジア圏のゲイ・ムービーの第一人者みたいになってしまって、それは観るしかないなと(笑)。そういうのに興味はなかったんですけど、たまたま香港に行ったらやっていたので、観に行ったらその場ではまって…映画館を出た時には、目がキラキラって感じになっちゃって(笑)。映画がどうというのではなくて、『これは日本でうける!』と思ったんですね。きれいな男の子たちが出てて、まるで少女コミックのようなボーイズ・ラブで。
それでノベライズを書かせてもらおうと思って、香港の友人に頼んで、ヨン・ファン監督(*11)に連絡をとってもらったんです。日本で気に入ってくれた配給会社があって、買うかもという話になり、香港に行って監督に初めて会ったのですが、その時は流れてしまってがっくり肩を落としました。監督にとっては映画が売れる方がいい訳で、ノベライズではしょうがないし、それからずっと音信不通になっちゃった。97年の冬でした。
翌年、香港映画祭で香港に行き、取材の後で喫茶店に入ったら、なんと偶然に監督がいて『やばい!』と思っていると、監督の方から寄ってきて『字幕やらない?』と。『私は広東語もできないし、字幕もやったことがないし』と言うと、『大丈夫。あなたくらい好きだったらできる』と言われたんです。その時、私はてっきり日本に売れたんだと思って『滅相もございません』と言うと『大丈夫。ギャラはないけど』って言うんですよね。それが、青山で毎年やっているレズビアン&ゲイ映画祭だったんです。それを聞いた途端に『やります!』と(笑)。ボランティアだったら、少々変でも許されるかなと思って。勉強にもなるし、好きな映画だし。
で、映画祭で上映したけど、その後も配給は決まらなくて、結局、通関は監督が持ち、パンフレットは私が無料で書いて、東京ファンタスティック映画祭に持ち込んだんです。」
その時、ゲストは来たんですか?
M「レズビアン&ゲイ映画祭の時は、監督が自腹でダニエル(ダニエル・ウー)を連れてきたんです。会場のゲイの方たちの盛りあがりようは、もう大変でしたよ。ダニエルを見ただけで真っ赤(笑)。それからファンタも自分のお金で来てくれた。しかもテレンス(テレンス・イン)も連れて。ヨン・ファン監督なんて、フランスの勲章を持っているような人なのに、エコノミーで来たんですよ。それですごい反響があったので、配給会社がついて新宿で公開されることになり、初日には主役のスティーブン(スティーブン・フォン)が、これまた自腹で来てくれました。ちょうどオフだったので、日本に遊びに行くついでに来てくれたんです。ついてましたね。
ファンタの時は平日の12時公開で、最初の1週間でチケットが100枚しか売れてなかったんです。あの時、カネボウ女性映画祭で『玻璃の城』(監督:メイベル・チャン、主演:レオン・ライ、スー・チー)をやっていて、それにダニエル・ウーも出てたんですね。だもんで、その会場に行って、自分で作ったチラシを2000枚くらい配ったんです。『ダニエル・ウーがやって来る』って(笑)。あの時はテレンスも来てくれたんで、『テレンス・インも急遽来日決定!』って入れてね。そしたらあっという間にチケット1300枚が売切れました。この2つの映画祭でダニエルたちを知ってもらってから、新宿で公開されたので、すぐにファンサイトが立ち上がりました。」
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