映画『東方不敗』を読みとく(前編)
現在、北京で撮影中という張藝謀(チャン・イーモウ)監督の大作映画『満城尽帯黄金甲』のキャストはすごい顔ぶれだ。周潤發(チョウ・ユンファ)、鞏俐(コン・リー)、周杰倫(ジェイ・チョウ)、劉[火華](リュウ・イエ)…。最近、公けにされたこの映画の衣装デザインを見ると、陳凱歌(チェン・カイコー)の『PROMISE』との類似性を感じる。
もちろんストーリーや時代背景などは全く異なるのだろうが、陳凱歌が『始皇帝暗殺』を撮ったあとに、やはり始皇帝の暗殺をモチーフとした『HERO』を張藝謀が撮った、かつての因縁に思いをめぐらさないわけにはいかない。中国第五世代の代表として、中国映画への国際的評価を高めた両雄が、いまや競って、アジアの大スターを起用した大作商業映画路線を突き進んでいく様には、脱力感すら感じてしまう。
実は、最近の陳凱歌や張藝謀だけでなく、近年の徐克(ツイ・ハーク)に対しても、一抹の寂しさを感じる。かつて程小東(チン・シウトン)と組んだ、『スウォーズマン』シリーズや、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズで、香港武侠映画の黄金時代を作り出した頃の徐克は、実験精神と娯楽性が見事に融合し、観るものの期待を裏切らなかったものだ。
『東方不敗』(スウォーズマン/女神伝説の章)は私の最も好きな香港映画の一本であり、何度も繰り返しDVDを観ているが、この映画にはそのつど新たな発見がある。荒唐無稽で筋の展開にも破綻が多いのだけれど、小じんまりとまとまったそつのない作品よりも、観る側の想像力を刺激し、大胆な「読み」を可能にするダイナミズムを備えている。
これは程小東や徐克らが始めから意図したことではなく、金庸の原作の自由奔放な翻案と、映画のオリジナリティが理想的に化学反応をおこした、幸運な偶然の産物なのではないかとも思う。しかし『蜀山伝』(天上の剣)や『七剣』(セブン・ソード)の徐克には、もはやそのような魔術的作用は期待できなくなってしまった。
というわけで、今回と次回の2回にわけて、映画『東方不敗』を論じてみたい。けれども、私の関心は映画評を書くことではなく、この作品から何が読みとけるか、という点にある。それによって、この作品のもつ底知れぬ魅力の一端なりを皆様にお伝えできたらと願う次第である。
1.政治的、社会的寓意としての『東方不敗』
『笑傲江湖之II/東方不敗』(以下『東方不敗』と表記)は、金庸の小説を原作とした、許冠傑(サミュエル・ホイ)主演の武侠映画『笑傲江湖』(スウォーズマン)の続編として製作された。原作の『笑傲江湖』は、「葵花宝典」という武術の秘伝書をめぐる争奪戦を縦糸に、正統とされる武術門派と邪教である日月神教との争い、武術門派間の覇権争い、日月神教の教団内における権力闘争がそれぞれ描かれる。
金庸の小説は文化大革命の始まったばかりの1967年に書かれており、政治的寓意の強い作品として受けとめられている。原作ではあえて時代や場所を特定していないため、寓意性が強められているのに対し、映画『笑傲江湖』では、明の神宗の時代に設定され、それを受けて、続編である『東方不敗』も映画の冒頭で、時は明朝の神宗萬暦22年、場所は中国南部沿海の福州と明示される。
映画『笑傲江湖』(1991)や『東方不敗』(1992)が製作された頃、香港社会では1989年の天安門事件の衝撃(いわゆる「6.4」ショック)と、香港返還の年である1997年問題が重苦しくのしかかっていた。ある香港の映画批評家は、この時期の一連の作品にはそれが色濃く投影されていると指摘している。
日本では、荒唐無稽な娯楽映画としてもっぱら観られてきた『東方不敗』だが、詳細に観ていくと、原作の持っていた寓意性を踏まえ、さらには当時の香港社会の暗喩であろうと思われる描写がちりばめられていることがわかる。いくつかの例をあげてみよう。
原作に登場する東方不敗は、始皇帝、曹操から、西太后、毛沢東まで延々と続く中国史上の絶対権力者の比喩として受けとめられている。金庸は自身が主宰していた新聞『明報』において、しばしば文革を批判する論説を発表していたこともあり、東方不敗は特に毛沢東と重ね合わされることが多い。それを反映してか、『東方不敗』の続編としてつくられた『東方不敗/風雲再起』(スウォーズマン/女神復活の章)の英語タイトルには「East Is Red」(すなわち毛沢東賛歌である「東方紅」)という人を食ったような題名がつけられている。
さらに、1997年の香港返還を前に高まっていた、香港の人々の移民ブームを風刺していると思われる描写もある。主人公である令狐冲(リー・リンチェイ)は、武林での果てしのない権力闘争にいやけがさして、仲間とともに隠棲の場所を捜し求める。その過程で、彼は日月神教内部の争いに巻き込まれ、東方不敗(ブリジット・リン)によって監禁されていた前教主、任我行を救いだすが、任教主は東方不敗以上に、残忍で権力欲にとりつかれた人物であった。任我行は令狐冲に冷然という。
「江湖只要有人、就有恩怨 有恩怨、就有江湖 [イ尓]怎麼退出?」(人のいるところ恩讐があり、恩讐あるところが、すなわち世の中なのだ。どうしてそこから抜け出せよう?)
令狐冲が始終口にしていた「退出江湖」とは、香港という悩み多き世界から、どこか別世界へ脱出したいと願う、香港市民の切実なる心情の反映と見ることができるのだが、しかし、どこかに逃れてもそれは一時的な避難でしかないというのが、この映画のメッセージでもあるようだ。
また、映画のラストでは、東方不敗を打ち負かし、天下覇業の夢を打ち砕いた令狐冲と妹弟子の岳霊珊(ミシェル・リー)に、任教主の娘である任盈盈(ロザムンド・クワン)はこういう。「想退出江湖、只有坐船去扶桑国」(江湖から逃れたいなら、船で扶桑の国に行くしかないわ。)
疑り深い任我行の魔手がせまり、朝廷軍からも追われる身となった彼らにとって、この地は安住の場所ではなくなったからである。扶桑とは中国神話に出てくる太陽の昇る木のことで、この木は東海の洋上にあると伝えられていて、やがて日本の別名となった。令狐冲らは、ほかならぬ日本に脱出することになる。
日本への言及はこれにとどまらない。そもそも、この映画では、豊臣秀吉の天下統一で敗残の身となった戦国大名の残党たちが中国南部を拠点に、苗族の反乱分子である東方不敗の一派と結託して、捲土重来を期すという設定になっている。香港人の役者が演じる日本の武芸者たちが登場し、怪しげな日本語が氾濫する。さらには、衣装やセットなどの美術、音楽などの面も含めて、日本という記号がいたるところに存在しているといっていい。
けれども、野武士のような格好の日本人たちが、焚き火を囲んで「あんたがたどこさ」や「おしくらまんじゅう」などの童謡を歌いながら宴に興じる姿は、日本の観客から見ると滑稽であり、服部やら猿飛といった武芸者たち、さらには続編の『風雲再起』に登場する霧隠雷蔵という武将の名前にも失笑させられる。その馬鹿馬鹿しさに呆れるだけで、「この映画における日本的な要素が、一体どういう役割を担っているのだろうか」ということに関心を向けた人は少ないようだ。次回は、この点に焦点をあてて考えてみることにしよう。
(2006年3月10日)
text by イェン●プロフィール
大学で西洋の映画の講義などをするが、近頃では、東アジア映画(日本映画も含む)しか受け付けないような体質(?)になり、困っている。韓流にはハマっていない、と言いつつドラマ『大長今』(チャングムの誓い)に熱中。中国ドラマ『射[周鳥]英雄傳』も毎回楽しみで、目下ドラマ漬けの日々。
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